
その作品は確かな技術と自然観察に基づく人間賛歌の詩情をもち、幻想的な独自世界を展開しています。
この記事の目次
1. はじめに
松本真先生(1937-2018)は、広島の美術シーンを大きく牽引した存在でありながら、インターネットが普及する以前に活躍されたため、オンラインではほとんど情報が残っていません。その生涯は画家として創作に打ち込みながら、教育者として多くの若者に計り知れない影響を与えました。哲学者のような洞察力や、時にシニカルで建前を好まない率直なお人柄も、多くの人の心に強く印象を残しています。
私にとっても、漆の道へと導いてくださった恩師であり、創作を支える礎、人生の方向を正しく導いてくださった存在です。
本ページは、先生の活動と功績を記録し、次代へと伝えることを目的として、奥様のご協力のもと作成いたしました。
先生を知る方々が思い出を振り返りながら新たな魅力を発見していただくこと、そして一人でも多くの方に先生のことを知っていただくことを願っています。
1990年(53歳)「海の里」の前で
2. 略歴
| 1937 | 広島市生まれ 本名・松本眞(あつし) |
|---|---|
| 1959 | 東京藝術大学美術学部(小磯良平ゼミ) 卒業 |
| 以降、個展、グループ展、公募展など多数 | |
| 1960 | 松本真美術研究所(現: ひろしま美術研究所)を設立し、美術大学受験教育を行う(-1973) |
| 1965 | 大下学園女子高等学校
|
| 1973 | ドイツ国立ハンブルク大学留学(1年間) |
| 1979 | 大下学園女子短期大学
|
| 1980 | 広島修道大学 准教授(-1992)、 教授(1992-2004) |
| 2004 | 脳梗塞を発症 |
| 2018 | 4月25日 逝去(81歳) |
※1 現・AICJ高等学校
※2 1989年広島中央女子短期大学に改称、2004年閉校
3. 幼少期と青年時代
広島市の中心からほど近い船越町で生まれ育ち、絵を描く事と読書が好きな少年でした。実家は建築関係の仕事を営み、戦後の特需もあり、家業は安定していました。
高校生の頃、新延輝雄の絵画教室に通い、油絵技法の基礎を学びました。在学中にはアトリエの一隅を描いた作品と、妹をモデルにした作品が、それぞれ広島県美展と全日本学生油絵コンクールに入選しています。
18歳、父親の東京大学受験の期待に反し、「東大じゃなくて、絵の東大、東京藝術大学に行きたい」と告げました。「霞を食べて生きていくつもりか」という父親の問いには、「霞を食べて生きていく」と答えて説得したとの事です。
大学受験では見事一発合格を果たし、小磯良平のゼミに進みました。ここで色彩の感覚や写実的表現を身につけるとともに、作品に内在する清潔感や気品、表現の精密さが、後の創作にも深く影響しました。
1943年(6歳)頃の画
1954年(17歳) 静物画
4. 画家としての歩み
大学卒業後、縁のある広島市内の画材店にて創作の場を設け、松本真美術研究所(現・ひろしま美術研究所)を創設しました。その後、活動の広がりとともに広島市中心部・大手町の大通りに面するビルへと移転し、より充実した環境を整えました。
ここで精力的に絵画を制作・発表し、当時世界で盛んだった抽象表現主義の影響を受けた作品もいくつか手掛けました。
作品五八 1958年(21歳) 第9回讀賣アンデパンダン展
無題 1959年(22歳)
母校の修道高校の図書館には1,000号の油彩画「道程」が長年掲げられました。(現在は撤去されています)
これは 「青春の過程」という意味で、アンフォルメル絵画の影響を受けています。本作の写真には、「世は60年安保の残照!」と記したメモ書きが添えられていました。
道程 1960年(23歳)
修道高校の図書館
帰国後は、家族の肖像画を通して、反戦の願いを込めた幻想的な世界を表現するなど、命の尊さを訴える作品を発表します。
ピクニックの海 1975年(38歳)
遥に II 1976年(39歳)
1981年 広島市安佐南区西原のアトリエ
作品を見た灘尾氏は「難しい顔をしているなあ」と照れた様子であった、と当時の新聞記事に記されています。
灘尾弘吉氏の肖像画 1981年(44歳)
衆院内に掲額
松本さん、制作大詰め
広島在住者で初の大任
(前略)
二枚の肖像画は近代・現代洋画壇の重鎮が描いた明治以来の歴代議長肖像画と並んで議長応接室などに掲げられる。広島県出身者または在住者で衆院議長の肖像画を描いたのは松本さんが初めてである。
(中略)
制作画家は描かれる代議士の希望で指名、多くは中央の有名画家が指名されている。
しかし、灘尾さんは「私の肖像画を描くことで励みになるなら将来性のある地元の若手・中堅画家に描いてもらいたい」といい、地元後援会などを通じて松本さんに大任が回ってきた。
(中略)
二枚とも濃紺の背広姿でイスに座った灘尾さんを描き、落ち着いて温厚な灘尾さんの特徴を表している。
松本さんに制作依頼があったのはことし一月。松本さんはさっそく東京へ出かけ一日中、灘尾さんと行動をともにしてあらゆる角度から灘尾さんの表情をスケッチした。機会あるごとに灘尾さんに会って習作など続け、それらをもとに半年前から制作にとりかかった。松本さんは「灘尾さんはメガネをかけているため難しい面もあった。高齢にもかかわらず元気で、人間としての風格を感じた。いつまでも元気でいてもらう意味でネクタイの模様に亀の甲をあしらった」と制作を振り返っている。
(後略)
1981年10月24日の新聞記事
その後は、仏像の究極と人物像の原点を探求した作品を描きます。
「人物を描き込めば仏像になる」と語り、裸婦の面差しに仏の表情を重ねた独自の仏画を描きました。仏像に美の神髄を見いだし、その追求は生涯を通じたテーマとなりました。
裸婦習作 1978年(41歳)
BUDDHA・炎炎 1978年(41歳)2 x 4 m
釈尊と十人の仏弟子と裏切者の提婆達多
「仏像はそれを彫った仏師が自分好みの理想を作ったのだと思う。それなら仏像より、私自身の人物を描こうと思うようになった」と語り、自身が打ちこめる身近な者に焦点を当てました。
冬木 神社にて 1980年(43歳)
牡丹 1982年(45歳)
未穂と万里(日韓同祖論による) 1983年(46歳)
第57回国展 新人賞
そして、徹底したリアリズムを土台に人物像の大作を描くなかで、徐々に幻想的な表現を取り入れ、次第に女性礼贊の裸婦像へと心を傾けました。
山の里<神楽> 1990年(53歳)
一人の女性が天女にも般若にも変わり得る
啓蟄 1994年(57歳)
雪の厳島神社 1998年(61歳)
来島海峡 夕陽 1999年(62歳)
作者メッセージ
松本 真
宮島のスケッチから始め、その後島並を追って西瀬戸自動車道沿いに四国・今治城の取材に至りました。神々の創りたもうた美しい自然の中での人間の造営、それをとりわけ建造物にみると、その造形表現に大きな違いがあることに改めて気づかされました。それは木の厳島神社に対し、島々に架かる橋は鉄であることの違いでした。後者は時に残酷な景色を呈しています。
それらをデッサン、水彩、更にタブロー (油彩画) に拡げてみました。いずれの作品も日暮れて道遠しですが、ここ数年来制作したものを発表します。
薄日射す朱の列柱に風花す
潮風受けし神の隠り家
島一日たつき終えたる山の畑
暮れなずむ沖舟を帰せり
島々を永遠につなげる橋の数
鉄の直線入りの痛し
西方に極楽浄土ありと言う
その夕焼けの色即是空
(近詠4首)
厳島としまなみ ー松本真 絵画展ー
パンフレット(2000月5月)
5. 教育者としての活動
大学卒業直後に立ち上げた「松本真美術研究所」は、現在「ひろしま美術研究所」として受け継がれています。基礎デッサンから油彩、さらには幅広い造形技法まで、確かな技術を丁寧に学べる場として、地元広島に長く根を下ろしてきました。
また、大下学園で講師を務め、さらに広島修道大学では芸術担当の教授として教壇に立ち、若い世代に新たな視点と創作の喜びを伝えました。そのまなざしや思想は、今も多くの教え子の支えとなっています。
なお、退職の年には、中国地方の山間に佇む古保利薬師の仏像造形を考察した著作『古保利の仏像』を刊行し、長年の研究をひとつの集大成として結実させました。
退職にあたって
商学部教授 1980.10~2004.3
松本 真
私の「藝術ゼミナール」は、油彩画の実技習得を主眼としました。そこは居眠りをせず、瞳を輝かせて実践に励む学生の姿がありました。
3泊4日の夏季合宿では自炊しながら、早朝5時からのスケッチ開始でした。1日24時間過した中で、現代若者の意外にクラシックな一面をみました。
その成果は1月下旬に「図書館ギャラリー」で展示します。
常緑のキャンパスに次々と新しい建物が誕生しています。
学生たちの見事なファッションが、その風景によく溶け込んでいます。その点景に清掃に励む人たちの姿があります。24年間、お世話になりました。
旅終えて 果たせぬことの ありき春(66才)
春近し ピンポンの音 すみわたり(11才)
TRUTH 冬号 通巻123号
修道大学広報誌(2004月1月22日発行)
6. 退官後と晩年の制作
退官時(2004年3月)、脳梗塞を発症しました。
右半身に麻痺が残り、それから14年間の長い闘病生活となりました。
時折、リハビリを兼ねて左手でデッサンを描きました。
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