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存清Zonsei

色漆で文様を描き、輪郭や細部を金で飾ります。

 室町時代に日本に伝わり「存星」とも書きますが、香川県は玉楮象谷(たまかじぞうこく)が用いた「存清」の文字を用いています。


制作工程

 いくつかの方法がありますが、香川県漆芸研究所で習った方法を説明します。

1.器物全体を研ぎ、磨きの工程の手前まで終わらせる。
2.文様部分を黒呂色漆で描く。乾固後、炭研ぎ。

3.色漆で文様を描く。高く盛り上げたい部分は何度か重ねる。乾固後、炭研ぎ。
4.文様部分を含めて、器物全体を磨く。

5.輪郭や細部の飾りを彫る。
(ここで終わりとする場合もあります)

6.彫った溝に金箔または金粉を漆で接着する。

 色漆は粘度があるので、筆の線が残らないよう厚みを持たせて描く事は意外と難しいです。


中国の存清

 中国の元から明時代にかけて活躍した彭君王、存清の姓名を技術の名称にしたと伝えられています[1]。素地は籃胎で作られ、中国では「鎗金細鉤描漆法(そうきんさいこうびょうしつ)」、「鎗金細鉤填漆法(そうきんさいこうてんしつ)」と言われています。
 黒地、赤地、黄地などの上面に色漆で文様を描き、輪郭を毛彫りしたり、金泥で隈取りするものもあります。
「主に中国の存清作品」(文化遺産オンライン)

鎗金細鉤描漆法(そうきんさいこうびょうしつ)

1.色漆で文様を描く。

2.輪郭や細部の飾りを彫る。

鎗金細鉤填漆法(そうきんさいこうびょうしつ)

1.文様部分を彫り下げる。

2.彫った部分に色漆を埋める。

3.炭で研ぎ、平らにする。

4.輪郭や細部の飾りを彫る。

香川の存清

 江戸時代末期、高松藩の玉楮象谷が中国の存清を模して、作品を制作したのが始まりです。象国の弟、文綺堂黒川国斎が産業化させましたが、業者による粗製濫造が原因で明治末には衰退しました。
 大正に入ると、存清の工人は香川藻浦(かがわそうほ)と弟の遠藤清一の二人になり、その二人が亡くなった後は香川宗石ただ一人となってしまいました。

香川 宗石 (1891-1976) Siseki Kagawa

 絵師の家系に生まれた宗石の父、藻浦(そうほ) は、もともとは存清の図案を描いていましたが、職人が思い通り漆器を作ってくれなかった(難しくて出来なかった)のを理由に、自らが存清をする事になりました。
 父を師として、宗石は存清の腕を磨きます。玉楮象谷の時代には数少ない色彩で単色の表現のみでしたが、宗石はぼかしによって、色彩の微妙な変化を生み出しました。また、文様部分を最初に黒呂色漆で描き、その上に色漆を重ねる事で、文様部分を盛り上げる「肉上げ塗り」を取り入れ、立体感を強調しました。[2]
 昭和39年(1962)年には、香川県指定の無形文化財存清技術保持者に認定されました。
「香川宗石」(香川県)


卒業制作 存清箱「アベリア」
写真提供: 料亭二蝶[3]

参考資料

1. 「存清(ぞんせい) 」香川県漆器工業協同組合
2. 住谷 晃一朗 「讃岐漆芸-工芸王国の系譜」 2005年 河出書房新社
3. 料亭二蝶(高松市)

2024.05.03