HOME 記述 讃岐(香川)漆芸

讃岐(香川)漆芸Sanuki Shitugei

鮮やかな色彩と個性豊かな技法で力強い作品が生み出されます。

 讃岐漆芸は、江戸末期に玉楮象谷(たまかじぞうこく)が中国や東南アジア伝来の技法に独自の技を加えて、日本様式の技法に確立した事から始まりました。
 美術工芸品だけでなく、盆、座卓、飾り棚など多岐に渡る商品が現在も生産、販売されています。
 1954年に香川県漆芸研究所が設立されましたが、全国でこのような公的機関は輪島漆芸研究所(1967年設立)と併せて2か所しかありません。私はこのうちの香川県漆芸研究所で漆芸を学びました。


高松城跡(玉藻公園)

主な技法

 玉楮象谷は大陸からの伝来品から「蒟醤」、「彫漆」、「存清」の3つの技法を研究し、日本様式の技法を確立しました。 これに「象谷塗」、「後藤塗」を加えた5つの技法が讃岐漆芸として、国の伝統的工芸品に指定されています。

蒟醤(きんま)

1.文様を彫刻刀で彫る。
2.色漆で埋める。
3.平らに研ぎつけて磨く。

さらに詳しく 「蒟醤」ページへ


彫漆(ちょうしつ)

1.色漆を約50回塗り重ねる。
2.彫刻刀で文様を彫る。
3.研いで磨く。

さらに詳しく 「彫漆」ページへ


存清(ぞんせい)

1.文様を色漆で描く。
2.輪郭や葉の葉脈などを彫って飾る。
3.彫った部分に金箔または金粉を付ける。

さらに詳しく 「存清」ページへ


 香川県漆芸研究所ではこれらの3技法を保存し、後継者の育成と技術の向上を図っています。
 香川県在住者のみならず、讃岐漆芸の技法を用いた個人作家は全国各地でも活躍しています。


歴史

 讃岐漆芸は江戸時代後期の高松藩の漆彫司(うるしほりし)玉楮象谷に始まります。 江戸や京都で主流の蒔絵とは全く異なる、中国や東南アジアより伝来した漆器を模して完成度が高い漆芸品を制作し、藩主がこれを奨励した事で興隆しました。

書籍「玉楮象谷伝」[1]

讃岐漆芸の祖 玉楮 象谷  
Zokoku Tamakaji (1806-1869)


 江戸末期に生まれた象谷は、二十歳頃から京都や大阪に遊学し、都の塗師や彫刻師、絵師、焼き物師、歌人や学者とも交友し、見識を深めました。当時、最高度に発達した蒔絵の技法がマンネリ化していた背景もあり、父から受け継いだ篆刻の技術を身につけていた象谷にとって、東本願寺などに伝来していた中国の彫漆や南方渡来の籃胎蒟醤との出会いは、その後の運命を決定付けるものでした。それらの珍しい器物を脳裏に深く焼き付け、可能な限り入手し、模範となる作品を追想しながら製作しました。
 高松松平家の宝蔵の手入れを命じられてからは、貴重な彫漆作品を手に取り、時には許可を得て器物を裁断して、その製法を考察しました。堆朱堆黒の技術はすでに日本にありましたが、それらは全て中国の模倣であり、象谷の手によって初めて日本の意匠を持った彫漆作品が生み出されました。
 三代の藩主に仕えて300余りの作品を創作した象谷に、藩主は「玉楮」という姓を与え、帯刀を許しました。

 明治には、象谷の弟、文綺堂藤川黒斎が、存清、蒟醤の技法で実用的な漆器を製造し、産業化の道を開きました。しかし、質の低い製品が濫造され、明治末年にはそれらの漆器は姿を消します。代わりに、木彫に色漆をほどこす讃岐彫りが盛んになり、石井磬堂(いしいけいどう)、鎌田稼堂(かまたかどう)など彫りの名手が輩出されました。
「玉緒象谷の作品」(文化遺産オンライン)

玉楮象谷「彩色蒟醤料紙硯箱」
(香川県漆芸研究所のパンフレットより)

讃岐漆芸中興の祖 磯井 如真  
Joshin Isoi (1883-1964)


 象谷が発展させた讃岐漆芸が衰退し、製法が絶えてしまった頃に磯井如真が高松に帰ってきました。如真は香川県工芸学校を卒業後、大阪の中山商会で中国の古美術品の修理や加工に従事し、あらゆる工芸技術を体得していました。そして、象谷や弟の黒斎が遺した作品を研究して、讃岐漆芸を蘇らせました。「点彫り蒟醤」を考案し、より繊細で芸術的な作品を生み出しました。
 1929年に帝展に初入選を果たすと、帝展入選を目指す若い漆芸家たちは如真を中心に研究グループ「工会」(たくみかい)を結成しました。毎年、高松三越で展覧会を開催し、好評を博した為、1939年、「讃岐工会」は大阪三越で第一回工芸品展覧会を開催します。しかし第二次世界大戦の劇化に伴い、1944年頃、活動は終息しました。
 1946年、如真は外地から帰還してくる作家を救済する為に、「大同工芸美術社」を設立し、衝立から茶托まで次々と製造し、それらはよく売れました。しかし、作家たちの独立や経営上の問題から3年後には解散してしまいました。その後、如真にそれまでお世話になっていた作家たちが如真を指導者とする研究グループ「苦味会」(くみかい)を設立し、美術工芸のもつ芸術的なデザインを産業工芸へ応用する事を推し進めました。「苦味会」は後に日本工芸会四国支部に継承、発展します。
 1956年、蒟醤の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。如真は蒟醤、存清、彫漆とあらゆる技法に習熟しており、彫漆が本領であったが、音丸耕堂が先だって彫漆の重要無形文化財保持者に認定されていたた為、蒟醤での認定になったようです。認定後は、「日本伝統工芸展」に毎年蒟醤作品を出品しなければならないのを不本意に感じた事もあったようですが、年齢を重ねた後は気力、体力が求められる彫漆より、蒟醤の方が長く続けられると話されたようです。
「磯井如真の作品」(日本工芸会)

堆朱堆黒から脱却した 音丸 耕堂  
Kodo Otomaru (1898-1997)


 伯母でもある養母が讃岐彫りの石井磬堂の友人だった為、12歳から3年半、磬堂の内弟子として奉公しました。磬堂は職人気質で、図案は支那趣味でパターン化された物が多く、これに飽き足らなくなった耕堂が自分で勝手に図をつけた為、最後は破門されたと言われています。
 二十歳の頃、宇治から来ていた橘香邨(たちばなこうそん)から日本画、入谷香涯(いりたにこうがい)から書を学びました。香邨からは輪郭線なしに色彩で描く「付立(つけたて)」を習得しています。20代の耕堂は、漆芸に関係する画法や書法、茶道から漢学、和歌や俳句までを貪欲に学んで吸収していきました。
 1921年、高松在住の風流人が中心となった香風会を結成し、日本画、洋画、彫刻、工芸部門を擁した美術展覧会を開催しました。この会は、運営費などの問題で4年で終わってしまいましたが、香川に新しい空気を吹き込む事に成功しました。
 1922年より素封家の高木吉直に見込まれ、高給で献上品の製作に2年間従事し、趣味人でもあった吉直より「一家を興す」という意味の雅号「耕堂」を与えられました。
 1937年には、制作に打ち込む為、また勉強し直して、自分の心に沿うような作品を作る為に、家族11人を連れて、東京に転居しました。戦時中は強制疎開の為、香川に戻りましたが、1953年、再び上京し、文京区に居を構えました。
 顔料の発達から白漆や中間色、鮮明な色漆が自由に得られるようになると、色彩表現の領域を広げ、文展、帝展、日展などに意欲的に出品し、特選を重ねました。
 1955年、彫漆の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された後は、日本伝統工芸展へ活動の場を移し、多くの彫漆作品を生み出しましたが、自分の作品に納得できる性分ではなく、そのもどかしさを創作活動の糧としていました。
 1982年には「公益信託音丸漆芸研究奨励基金」を設立。晩年の2年間は高松に戻り、療養しながら香川県漆芸研究所で主任講師を務め、後進の育成に貢献しました。
「音丸耕堂の作品」(日本工芸会)

純粋芸術を志した 明石 朴景  
Bokkei Akashi (1911-1992)


 香川県立工芸高校で如真に漆を習った朴景は、東京美術学校の「図案科」を受験し、見事合格しました。卒業後は、和歌山県の工業試験場の中に漆器部があり、そこで図案の指導をする傍ら、漆に関する色々なテクニックを身につけ、1941年には、母校の工芸学校の図案科の先生として、高松に戻りました。戦後、1946年に復員した際、焼野野原と化した高松市内に衝撃を受け、美術文化の昂揚こそ我々日本人のとしての仕事であると思い、展覧会を開く為にも美術館建設を目差します。
 また、如真主宰の「工会 (たくみかい)」をマンネリズムと断じ、反発した朴景は若手作家と「うるみ会」を発足。1952年には朴景を含む会員8人が同時に日展に入選して話題になりました。純粋芸術を叫ぶ「うるみ会」と、産業芸術を標ぼうする「苦味会(くみかい)」(=工会の後身)は互いに反目し合い、香川の工芸界を二分しました。後に「うるみ会」は「伝統工芸」に対して東京で興った「現代工芸」に移行し、発展的に解散しました。
 このように、香川の工芸界は日本伝統工芸展の「日本工芸会」と、日展の「現代工芸美術家協会」に大きく分かれて、次第に系列化されました。
「明石朴景展」(高松市美術館 PDFファイル)

この本[2]を参考にして書きました


 日展系の著名な作家として、真子実也、大西忠夫が後に続きます。
 日本工芸会としては、如真の三男の磯井正美、如真の内弟子で娘婿の太田儔らが重要無形文化財保持者に認定されました。このお二人は香川県漆芸研究所で、私も直接指導を受けました。機会があれば、もう少し詳しいエピソードなどを書ければと思います。
 以上、偉大な先生方を紹介しましたが、読みやすいように敬称を省略させていただきました。



香川県漆芸研究所

 香川県の伝統的漆工芸である蒟醬、存清、彫漆などの技法を保存するためにその後継者の育成につとめるとともに、技術の向上を図ることを目的とし、1954年に設立されました。香川県の人間国宝の先生方を主任講師とし、東京、輪島など全国の人間国宝の先生方も創設以来、講師として訪れ、直接指導を受ける事ができます。募集人員は毎年10人で、入学金、授業料は無料です。三技法の他に、絵画、デザイン、造形、乾漆などの素地の製法も学ぶ事が出来ます。研究生課程を修了した後は研究員過程もあります。 [3]
 分業が一般的な漆業界の中で、素地から加飾まで一通りの技術を習得できるのは、ここを置いて他にありません。素地を自分で作れるというのは、作家活動をする上で大きなアドバンテージになります。また、個性豊かな先生方のそれぞれの考え方や制作方法を教わり、図案のアドバイスを受け、総合的に様々な学びがあります。漆芸を志す者にとって、この上なく贅沢な場所ではないでしょうか。先輩方も活躍している方が多くいらっしゃいますので、業界内の方々と広く交流を持つ機会に恵まれます。

香川県漆芸研究所のパンフレットより


参考資料

1. 住谷 晃一朗 「玉楮象谷伝 自在に生きた香川漆芸の祖」 2016年 香川県監修 求龍堂
2. 住谷 晃一朗 「讃岐漆芸-工芸王国の系譜」 2005年 河出書房新社
3. 香川県漆芸研究所

2024.05.02